自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖(いえど)も吾往かん パート1
Wikipedia「孟子」より
自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖(いえど)も吾往かん
孟子の言葉です。
合氣道の藤平光一先生の誦句集にも載っていました。
【意味】自ら反(かえり)みて(自分の思いや行いが)道義に合うなら、相手が何人いようが私は敢然とこの道を進もう。
この教えは、ヨーガやヴェーダの教えとも共通するものです。
この「自ら反みて」という言葉に深い意味合いを感じます。
私たちの意識は、通常、外側に向かっています。
心が五感と結びつき、外側(自分以外の存在)の対象を見たり聞いたりします。
サンスクリット語では、外側へ向かう意識を、「パラーンガ・チェータナー」と言います。
反対に内側へと向かう意識は、「プラティヤク・チェータナー」と言います。
1日のほとんどの時間は、このパラーンガの意識状態にあり、
目覚めているか、眠っているか、夢を見ているか、どれかの意識の状態にあります。
そこで、ヨーガや瞑想の時間が必要となるのです。
見る対象を五感から、心の内側へと対象を移し、自分自身へと戻るのです。
「パラーンガ」から、「プラティヤク」に移行しなくてはなりません。
この「プラティヤク」という意味をサンスクリット語の辞書で調べると、「反対方向、後ろ向き」とあります。
これが、「反りみる」の本質的な意味であると思います。
単に、過去を振り返るとか、反省するとか、そのような思考でどうこうしようとすることではなく、
このような思考活動を超えたところに、本当の価値があるのだと思います。
超越です。
そこには、体験の対象が存在していません。
一切の対象がありません。
想念も、イメージも、感覚も、何もありません。
あるのは、純粋な意識のみです。
これが自分自身に反る、ということです。
超越瞑想を毎日行うことは、どんな人にも必要なことです。
瞑想をする時間がもったいないと考える人は、自分以外のことを軸足にした人生を歩むことになります。
それこそが、時間の無駄というのではないでしょうか。
パート2へ続く
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